八月十六日。
 ヘチマの水やり当番のために学校へいく。校舎の裏手の畑にまわると、ゲンがもう来ていた。スタンダードな緑のじょうろを右手に、くるくる回りながら水をふりまいている。強い日差し。ヘチマのあざやかに黄色いお花とめ花。じょうろの先から細かい水の粒が光りながら散る。
 早かったね、と私は声をかける。
「ホンが遅いんだと思うよ」
 ゲンが回転運動をやめて振りむいた。足元がまだふらついている。頭の麦わら帽を片手で押さえて、じょうろの先を私に向けた。
「もう全部水やっちゃったよ。来る意味なかったよ。バカだね、ホンは家遠いのに」
「ほんとだよね。来なけりゃよかった」
「あ、ラピュタ」
 ゲンにはおよそ脈絡というものがない。その指さすほうに目を向けると、発達した積乱雲がにょっきりと頭をもたげていた。
「あー、雨、来るね」
 言いながら、肩よりちょっと長いくらい、二つに結んだ天然パーマの髪をゲンは指先でいじる。なんでも、雨が近づくと髪のカール度合いが増す体質らしい。天才えりちゃんみたい、と以前言ったらきょとんとしていた。
 なに、天才えりちゃんって。読んだことないの、天才えりちゃん月に行くとか天才えりちゃん金魚を食べたとか。知らない。だろうね。
「じゃ、降られないうちに帰るわ。あんたも早く帰りな、ハシモトさん」
 ゲンはときどき私をそう呼ぶ。
「そうするわ、ハシモトさん」
 私もそう言い返してやる。彼女が橋元で私が橋本。一学年一クラスなので当然六年間同じクラス。当然出席番号はつねに前後。それで水やり当番も一緒。
 でも中学の学区は別。
「乗る?」
 いつのまにかじょうろを所定の場所に片づけたゲンが自転車をひいてきていた。
「……チャリで学校来ちゃいけないんじゃないの」
「まあね」
「あんた、家近いでしょ」
「まあね」
「そのうえ二人乗りは道路交通法違反だよ」
「ホンは頭かたいねえ」
 ゲンは荷台をてのひらでぽんぽんとたたく。
「ほんとは乗せてほしいんでしょ。素直になんなよ」
「やだよ」
「乗んなって」
「やだ。怖い」
 怖いって! そっちなんだ! ゲンが楽しげに叫ぶ。
「じゃあなおさら乗んなきゃ。人生なにごとも経験だよ」
 しっかりつかまってれば平気だから。その言葉に押されて、太陽の下に放置されていたために少し熱い荷台にしぶしぶまたがる。いくよ、の声と同時にゲンがペダルをこぎ出す。
「夏休みの宿題、やった?」
 目の前の背中が言う。
「やった。あと自由課題だけ」
「なんにするの」
「ゲンは?」
「習字。年金コンクールのやつ」
 ゲンは書道がうまい。でもあの「みんな年金」とか「基礎年金」とかを書くのはどうかと思う。
「で、ホンは?」
「作文。お米とわたし。それかアイデア貯金箱」
「ふーん」
 自転車は校門を出て右折する。急にスピードが上がった。
「ちょ、速いよ! 落ちる!」
「落ちない!」
「速いと怖いんだって!」
「ゆっくりこぐほうが怖いよ!」
 そりゃそうだ。私はそれ以上の抗議をあきらめた。直進。二つめの角を左。直進。日差しはまだ暑いが風が気持ちいい。
「チャリ乗ってて、なんか飛べそう、って思うこと、ない?」
 唐突にゲンが言った。おお、なんというロマンチスト。ついていけない。
「……ないよ」
「なんとまあ。君はそれでも小学生かい?」
「小学生をひとくくりにしないでくれるかな。みんながゲンと同レベルなわけじゃないよ」
「夢がないねえ」
「なくて結構」
「信じる心が力になるんだよ!」
「それ、なんかの台詞?」
「うん、レイアース。知ってる?」
「知らない」
「だろうね」
 荷台に乗るのははじめてだった。道路のちょっとしたでこぼこが直接ひびいておしりが痛い。
「でもさ、あたしが頑張ってこいでさ、それでもってホンが手え広げて翼担当してくれたらさ、結構いけるんじゃないかな」
「いけないよ。っていうか手離したら落ちるよ」
「でもほら、ETだと自転車で飛んでたじゃん」
「まあ、宇宙人だしね」
「じゃあ、ETってなんの略か知ってる?」
「知らない」
「それでは教えてしんぜよう」
 高らかにゲンは叫んだ。
「エンジン全開、ただいまより本機は離陸体勢に入ります、の略!」
 またスピードが上がる。左の道に入れば長い下り坂だ。私は彼女の腰にしがみつく。覚えておこう、忘れないでいよう、一九九六年八月十六日、私の、はじめての、道路交通法違反記念日。










「翼」「信」「特異体質」の三題噺でした。
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